2017年04月24日

樹花菜

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四川から持ってきた食材です。
私は不勉強なので四川にしかないと思っていましたが、信州大学の松島先生が調べてくれた情報によるとバンダイキノリという名前で日本でも食べられているようです。戻し汁はすべての人がプーアル茶と間違うと思います。前菜のあえ物に使っていますが、掃除が面倒なのですぐやめます。

従業員の話
現在十年以上先輩に手伝って頂いています。
そこでいただいたアドバイスとして
「この店には毎日同じことをやる仕事がほとんどない」
「アイテムが多すぎて半年ぐらい経たないと全貌が見えてこない」
というのがありました。うちの従業員は朝から晩まで毎日僕に何か仕事ないですかとせびるので自分で考えろと言ってましたが、仕事らしい仕事ってひょっとしたら全然ないのかもしれません。
一応来月から若手の従業員が入ります。もう一人入れようかと思ってましたが、仕事がないのでそこでとりあえず募集は閉め切ります。まあ働きたいという問い合わせは全くないんですけど。

少しは悔しいので幻の副料理長(ランチメニューすべて、単品メニューすべて任せられる経験者)募集のときの待遇を書いておきます。給料などは以前の実績です。
勤務時間  10時から22時30分ころまで(休憩2時間)
給料  総支給月250000円
休み  日曜日と祝日
ボーナスはないですが寸志はありました

下働きは180000円程度です。
仕事がないので勤務時間短いです。
精神的な安定のために僕は最低300時間は働きたいところです。350時間くらいか。
posted by オギノ at 00:32| Comment(0) | 中国料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

麻婆豆腐の歴史(向東氏の著書より)

16年近くほぼ毎日勉強してますが、辞書を引きながら翻訳したのは一年ちょっとぶりです。
麻婆豆腐の歴史についてはほとんどこれで正しいのではないかと思います。

清朝末年(1861年)、」万福橋のたもとで陳興盛飯舗が誕生する。万福橋は当時近隣地域の農産品の交易、とりわけ油や米などの穀物を運ぶ道になっており、荷物を運ぶ労働者などの休憩、食事どころとなっていた。万福橋周辺はまた成都北門の城隍庙(上海の豫园を想像してください)に近く、周辺または城内の人のお参りや買い物などで常に賑わっていた。そうしたところに陳夫妻は目をつけ、夫婦二人で小さな店を開き、二人で商売を始めた。

陳の店の近くには王さんの豆腐屋があった。王さんの作る豆腐は柔らかくそしてきめが細かく、王さんは毎日陳の店の前にその豆腐を並べ、客に販売していた。前の道には常に豚肉や牛肉を売る行商人がいて、陳の店で休憩しながら客に肉を売っていた。そして陳の店の主な客は油や穀物を売る行商人で、毎日朝早くから売り歩き疲れたところを陳の店で休憩し、豚肉や牛肉と豆腐を買い、入れ物に残った油を使って陳の妻に煮込みを作らせた。妻は行商人が味の濃いもの、麻辣味を好むことを知っていたため、唐辛子と山椒を加えて豚肉と豆腐を煮込んだ。妻の作った豆腐料理はおいしくかつ安かったため、たくさんの人に愛された。

ほどなくして妻の作る麻辣烫味の豆腐料理のうわさが広がり店の名物料理となった。妻の顔にはいくつかのあばたがあり客は妻の事を陳麻婆(あばたのある陳さんの奥さん。奥さんの名前が陳さんとは限らない)、その豆腐料理を麻婆豆腐と名付けた。そしていよいよ商売が繁盛しだしたその時、陳が病死する。妻は一人で娘を抱えて働くが、商売は忙しくなる一方で、妻はついに薛祥顺という調理師を雇う。調理師は今までの料理だけでなくいくつかの料理を始め、繁盛した店は店舗を広げた。その後客の要望で麻雀やお茶やお酒の飲めるところも作り、その繁盛の様子は成都竹枝詞にも描かれている。

陳の妻の名前は陳、劉、李など諸説あるが、有名な学者が言うところでは温巧巧ということになっている。当時は温豆腐などの呼ばれ方もしたが、次第に麻婆豆腐と呼ばれるようになった。

1920年代になると、もはや遠くでも知られる有名なブランドとなった。依然として万福橋に店はあり、昔のままで繁盛していた。陳の妻は54歳で亡くなり、店はその娘と娘婿が経営し、薛祥顺が厨房を仕切っていた。当時の万福橋は木材の交易が盛んで、麻婆豆腐の人気はさらに増加した。

30年代に入ると国民党政府が重慶、成都に入り、各地から人が押し寄せた。食べることは人々の楽しみで、麻婆豆腐はなくてはならない食べものとなっていた。当時麻婆豆腐を出す店は少なからずあったが、客は依然として万福橋に行き、本物の味を楽しんだ。娘と娘婿は二人ともなくなり、店舗はその子供と妻に受け継がれる。それから少しして宋幺娃という人が近くに陳興盛飯舗そっくりの店を作り繁盛しだした。同じように肉臊子豆腐も売っている。その店で働く二人の調理師は腕がよく、陳の麻婆豆腐に新しい調味を加え更に美味しくしていた。この二店は腕を競い合い、多くの客を呼び、麻婆豆腐はさらに有名になった。その後刘伯安という人が宋幺娃の店を買い取り、伯庄飯店と名前を変えて新しくした。しかし依然として麻婆豆腐を売っていて、それに多くの伝統四川料理を作り商売は大いに繁盛した。これを見て陳興盛飯舗も新しい豆腐料理の開発、伝統料理を増やし、商売はさらに大きくなった。

40年代になるとまた新しい江头归という陳興盛飯舗より大きい店ができる。ここも同じく麻婆豆腐を売り、万福橋の木材交易の繁栄によって客を大いに集める。ここは元々は城内の精一堂のオーナーで、お金で伯庄飯店を買い取り、さらに大規模改修を行い腕の良い調理師を雇い一定期間客を引き付けていた。陳興盛飯舗は当時すでに前のオーナーの娘と娘婿に引き継がれていて、陳麻婆豆腐を一枚看板とし、さらに店名を陳麻婆飯舗と変えるため有名な人の書いた字で看板を作ってもらった。効果はてきめんに現れ、客が途切れなく入り、一年もたたずして江头归は閉店した。

1947年成都が洪水に見舞われ、万福橋の店は使えなくなった。そしてしばらくは移転を繰り返していたが、再び万福橋付近に店を構え、当時の評論家に店を紹介してもらい、商売は急速によくなっていく。

1951年6月25日、店名を改め陳麻婆飯舗とし成都市に登記する。その後すぐに娘婿が病死。1956年に国と個人の公私合営になり、娘は定年までそこで働いた。公私合営になってから陳麻婆豆腐店と名を改め西玉龍街に移転。60年代有名な書家の余中に看板を書いてもらう。66年文化大革命の影響で文勝豆腐に改名させられるが、70年代末に陳麻婆豆腐店に戻る。現在は成都のみならず中国全土、海外にまで陳麻婆豆腐店は開かれている。

歴史偏終わり。
次回は味編です。

posted by オギノ at 02:33| Comment(0) | 中国料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

樟のスモークと樟茶鴨

以前フェイスブックに書いたものと同じこと書きます。
検索しにくいというそれだけの理由です。

樟茶鴨と言う名前の料理があります。一般的には樟、茶を使った料理で、お茶の扱いについて大きく分けて二つやり方があるようです。

一つは漬けこみに使うというもの
お茶を使った塩水にアヒルを漬け込み、樟などでスモーク、蒸し、揚げるというもの。

もう一つはスモークに使うというもの
塩水に家鴨を漬け込み、お茶や樟などでスモークし、蒸し、揚げるというもの。

どちらが正しいのでしょうか。そして、樟はスモークに使うのでしょうか。

今回四川で二か所樟茶鴨を食べましたが、どちらも桜のスモークでした。お茶も樟も感じられませんでした。

歴史的にみると樟と樟茶鴨は関係がないようです。

1920〜30年代、四川料理の名店「姑姑筵」の創業者が北京に行ったときに食べた「满汉熏鸭」よりヒントを得て、福建漳州より入るお茶をスモークに使ったアヒル料理を漳茶鸭と名付けた。

その後、お茶が手に入りにくくなって(店の規模が大きくなり量が調達できなかったとの説もあり)樟の葉、四川のジャスミン茶を使って漳州茶の代用とし、「樟茶鴨」と名付けた。

ということで、樟は元々は関係がないようです。しかし現在も樟のスモークはしていることから、まったく無意味ということにはなりませんね。桜でもいいんじゃないかと思います。
posted by オギノ at 00:54| Comment(0) | 中国料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする